10 January, 2010

明日なのか数万年後なのか600年前なのか、ベテルギウス爆発

地球からの距離は約600光年とされる一等星ベテルギウスでこんな話題が舞い込んできました。

asahi.com(朝日新聞社):ベテルギウスに爆発の兆候 大きさ急減、表面でこぼこ - サイエンス:
オリオン座の1等星「ベテルギウス」で、超新星爆発へ向かうと見られる兆候が観測されている。米航空宇宙局(NASA)が6日に公開した画像には、星の表面の盛り上がりとみられる二つの大きな白い模様が写っていた。この15年で大きさが15%減ったという報告もあり、専門家は「爆発は数万年後かもしれないが、明日でもおかしくない」と話す。もし爆発すれば、満月ほどの明るさになり、昼でも見えるようになる。

 冬の大三角の一つでもあるベテルギウスは、赤色超巨星と呼ばれる巨大な星。直径は太陽の1千倍で、太陽系にあるとしたら、地球や火星はおろか木星までが覆われる大きさだ。重いため一生は短く、まだ数百万歳(太陽は46億歳)だが、すでに寿命に近い。最後は超新星爆発を起こし、ブラックホールなどになるとされる。

  地球からの距離は約600光年。


もし爆発すれば?明日でもおかしくない?数万年後かもしれない?だって600光年ですよ。光、電波いずれも地球に届くのに600年かかるわけだよね。仮に明日「爆発した!」となっても、それは600年前に起きた出来事がやっと地球に伝わったということ。爆発したのかどうかは、すでに結論は出ているかもしれない。これは面白い。どんだけ過去と現在と未来を自由に使ってるのかと。

遠い星の過去の歴史が届くのを待ちながら、自分たちの未来を予測する仕事なのですね。
ロマンを感じる、、といきたいところだが、むしろ背筋に冷たいものを感じる気がする。だって、地球に情報が届いていないだけで、宇宙的にはもう決まってるわけだし。

遠い星を調査する天文の専門家は、未来に向かって調査を進めているというよりは、過去にすでに起きた出来事が地球に届くのをひたすら待っているのですね。光よりも早いスピードで伝達するものを見つけられれば、もっと先のことまでわかるわけだ。おっと、「光速よりも先に伝搬し影響を及ぼす何かがある」とすると、観測して予測するより先にどがーんと影響を受けてしまう。

これは急がねばならぬのでは。光より速い、観測可能なものを早いところ見つけろ、と。
は、それがスーパーコンピューターで計算できたら世界一だねw

それはそうと、600光年って、まあ、思ったより近いしリアルな印象を受けました。ウルトラの星、M78星雲は銀河系から300万光年だからおとぎ話でいられるわけですね・・・。

は!ウルトラマンはどうやって移動するんだろう!?ウルトラマンは地球の平和を守るためにちまちま怪獣退治してる場合ではなく、むしろ宇宙で何が起きているのかを伝えるという仕事をしてくれたらいいんだよな。

スーパーコンピューターじゃだめだ、ウルトラコンピュータじゃないと!

「宇宙」が面白くなってまいりました。

31 December, 2009

30年に一度の「大きなツキ」の日。

国立天文台天文情報センター暦計算室によると、2010年の元旦は満月。
http://www.nao.ac.jp/koyomi/

元日と満月の組み合わせは30年に一度だそうです(裏はとれず)。

追記:しかも!2010年元日の早朝に、部分月食が起こるそうです。
"2010年最初の月食は部分月食で、元日の早朝に起こります。食が始まるのは午前3時52分頃、終わるのは午前4時54分頃で、食の最大は午前4時23分頃となります。"
なにはともあれ、さまざまな景気循環説は数十年単位ですよね。

1980年代。オープン・イノベーションの担い手が大手企業のR&Dからベンチャーに移ったドラスティックな時代。音楽的には80'sは時代を超えてひとつの伝説化しています。フュージョンブームでもありましたね、コピーバンドの多さが支えました。

当時わたしはティーンエイジャーで、高専で、勉強も、バイトも、バンドも、好きにいろんなチャレンジをした時代でした。そう、もっと好きにやってもよかった。今?再びやってるんだなあ、そういうこと。

1990年代。生産重視系、焼き畑農業的ビジネスのバブルははじけるわけですが、技術革新のシードが大きく発展した時代。

わたしはOAの会社を経て、早くにUNIX系エンジニアに。とても早くにインターネットに接することができたためにLinuxとともに成長し、それをきっかけにさまざまな人の出会いやプロフェッショナルビジネスに恵まれました。

2000年代。IT・ネットバブルが一旦はじけ、競争力の源泉がめまぐるしく変化する時代。この10年をぜえぜえいいながら走ってきたわけですが、この時代にいろんな「起業」を体験し、そして末吉さんとか高須賀さんとか大前さんとか他にも大勢の「匠」、あとは不断の仲間を得、それぞれから常に学ぶ機会をいただいている。これはとても大きいと思います。

2009年、大勢の方々に力を得て今日までめちゃめちゃスリリングに過ごしました。公私ともに、いろんなバッターボックスに立たせていただけた。とてもとても感謝しております。

つらいことも、楽しかったことも、必ずいいことにつながります。逃げと失敗は本質的に違う。失敗に折れないことも、成功に甘んじないことも成長につながります。

2010年を迎える今、景気循環が何年単位でもいいんですけど、とにかくマクロ的弁証法的にも、ミクロ的体感的にも、原点回帰とステップアップの両方がどくっどくっと躍動が来てる感覚があります。そして、エンジニアリングふたたび。Emacs率急上昇中です。社会心理学の実装に没頭することにも決めました。

さあ、元日、「大きなツキ」を見よう。

30 December, 2009

あっさり1400+365文字まで書けた件

なにこれ、woofer? 英辞郎曰く、「低いうなり声[音]を出す」

そうするとここでは「つぶやく」感じではなく、ぶつぶつと好きなことを延々と言えというわけですね。あまり人として充実した感じはしないが、まあ人の言うことなんて自分にとっては名言だが聴き手にとってはうなってる程度なのかもだね。

このインターフェース、なにが一番のキモかってこの文字数カウンターだよね。Twitterでは、「あと何文字書けるか」を140から減じていく方法で表示させるのに対し、Wooferでは、「あと何文字書かなければならないか」を-1400から加算していく方法でひたすら「0」になるのを目指させる。

で、どれどれ、と書き始めると、なかなか1400文字も行かない。最初はこのページの雰囲気に引っ張られて、普通にtwitterぽく書いていくわけだが、少々長く書いたところで-1241とか書かれていて、

「あはは。おまえ、そんな程度しか文字書けないのかよ。ずいぶん体力落ちたな! twitterなんぞで中途半端に情報メタボになっちまってるんじゃネーノ?(爆」と言われてる感じだ。「そりゃこのインターフェースの狭さのせいじゃないのかよ」と言ってみよう。この時点ではそう思った。

だってさ、私の場合、記事を書く場合はWordやWriteRoom(Mac用執筆ソフト)で書く。パワポでも、A3モードにする。そこには「書くべき内容をじゃんじゃん投げ込める広い面積」を確保し、遠慮無く書く。とにかく好き放題発散してもあとで俯瞰して編集し、自分のタイム感で「語りかけ」をする。広いってすばらしい。つまり、書くべきものにふさわしい広さとタイム感を持った入力先が必要だろう。

なんてのはどうかね。

「インターフェースの面積」 x 「インターフェースが強制するタイム感」=「執筆空間」

twitterは面積が狭い上に、早いスピードを強制するから、それは直感的かつ短命な情報がじゃんじゃん現れるわけだが、なぜかしら執筆エネルギーをそいでしまうため、blogなど長文を書く頻度、あるいは書いたとしてもその量、質すなわちゆとりを持って彩りのある表現を存分に駆使することに元気がでなくなる。

広い面積のRHODIAや、3Mのイーゼルパッドで、ゆったりとした時間をとり、思考のマッピングをする人を何人か知ってる。プチアイデアを落としてしまわないために急いで書くことを怠るわけではないのだが、そういう「ちょっとしたレベル」の情報単位はポストイットやRHODIA#11を使う。Evernoteはそこに位置づけられる。

すなわち、Twitterではその「ちょっとしたレベル」で人とプチ情報の交換ができる、そういうことが起きていると思えるわけなのだが、そこでは連携性のある思考マッピングには向かない。短期記憶に収納するには大きすぎるし、せかせかとした情報フローでは立体的なビジョンを書き落とせないからだ。

ここに大きな思考表現の機会損失があることは明白だ。

どうすればいいか。少なくとも、利用のシチュエーションごとにばさっと切り替えるとか。いわゆるパソコンのキーボードを使うときは、ばっさりtwitterに書かないとか。思考マッピングできる「広い面積」の出番を減じないようにし、自分のはけ口に安易にtwitterを使わないことにする。ケータイやスマートフォンはいいとしよう。老若男女とせいぜい仲良くtweetしよう。

次に、twitterでは「タイム感」を落とす。これはfollowerを減らすか、スルー力をつけるしかない。follow数が劇的に少ない人に面白い発言者が多い気がする。要するに「タイム感」を強制されていないからかもよ。

1400文字書くのも、やってみると乗ってきますな。途中で息切れしつつも、乗ってくるとこの狭いインターフェースでも結構書けてしまう。楽々1400文字をクリア。インターフェースが狭くても、タイム感がゆるやかだからかもしれない。でも、ここまでで15分もたっていない。

あら・・・。

まずい。

連載の4000文字がなぜさらっと〆切までに書けないのかと編集長Fさんに怒られてしまうではないか。

+365文字となったよ。
良いお年を。

# 本投稿は、wooferで書いたものをコピペしたものです。

05 October, 2009

INAXシャワートイレのリモコンリセットHOWTO

自宅のINAXのシャワートイレのリモコンが、突然反応しなくなった。(ウォシュレット必須の私にはこれは大事件なわけです。)

かつてTOTOのものを使っていたことがありますが、そもそもリモコンなんて不安定な意思伝達手段ではなく本体直付けだったので、こんな問題は初めてです。

電池を替えても反応はない・・・。本体には緑のLEDが点灯しており、本体故障の雰囲気はない、と。困りました。

ネットで検索しますと、OKwaveYahoo知恵袋にそれぞれ同様の問題を相談している人がおり、2chにもスレがあり、、、どうもINAXのシャワートイレの故障は「よくあること」だということを理解しました。

しかし、それら情報からは事態を打開する具体的な手段が書かれていませんでした。
うう、群衆の叡智は専門知識には向かないのか!いえいえ、これは、「電材屋さんがネットで交流などしていない」という、業界ごとのネット情報の「むら」を露呈しているのでしょう。

難しいことはさておき、ともかく、INAXに電話しました。しばらくしてつながり、その後のやりとりで担当者からのコールバックを待つことになりました。

担当者は関西弁のおじさん。関西人の私にはまるで問題なし。

状況を説明したところ、リセットしてみることになりました。

■ リモコンのリセット
  1. リモコンの電池を二つともはずしてしまう
  2. その状態で、どのボタンでもいいので、「とーん、とーん、とーん」というペースで10回押す。(←キモ)(わたしは複数のボタンで、合計30回くらい押した)
  3. 新しい電池を入れる
  4. 電池のランプは点灯しない。点滅(電池切れのサイン)もしないのが正常。

■ 本体のリセット方法
  1. 電源をコンセントから抜いてしまう
  2. 10秒以上待つ(←キモ)
  3. 電源を入れると電源が入る
  4. さらに念のため、コンセントのところにある漏電の緑のボタンを長押し、次いで手を離す
  5. 電源が入る

というわけです。

リモコンと本体のリセットは、どうも内部で持っている記憶を消すことが大事なのだそうで、ホントかどうか知りませんが、とにかくこれで動作するようになりました。

少なくとも、私の感じる範囲では、INAXのお客さま相談ダイヤルは、とてもわかりやすい、迅速な良い対応だったと思います。

どうもありがとう、INAXのお客さま相談ダイヤルのおじさん。

追記(2009/10/6)
この投稿のあと、twitterでkinnekoさんにコメントをもらいました。
http://twitter.com/kinneko/status/4620624916
それならケータイカメラで発光部を撮影して無発光を確認したほうが吉。

早速やってみました。携帯カメラを通して(撮影までしなくて良い)リモコンを見ている状態でスイッチをぽちぽちやってみますと、肉眼では見えない赤外線の発光が、確かに見えます!
テレビのでもエアコンのでも、見えます。案外面白い。(すぐ飽きますが。)

「リモコンが反応しないとき、赤外線を発光してるのかどうかを簡単に調べる方法」は、「携帯カメラを通してスイッチを触って発光しているかどうか見てみる」ですね!

その筋の人(kinnekoさん)には「常識以下」の知識なんだそうですが(汗)、私は知らなかったので記録のため書いておきます。

ありがとう、kinnekoさん。

19 July, 2009

土用丑の日に送る、鰻のうまいあたため方 HOWTO

土用丑の日を盛り上げる企画だろう、昨日だか一昨日だかでテレビでやってた。

リポーターは鰻関連の名店の板前さんに、「スーパーで買ううなぎのおいしい暖め方を教えてください」なんて無茶なことを質問していた。エキスパートに恥も外聞もなく質問をするのはとても良いことだ。Wisdom Access Questionは「相手を見極める」ことから始まる。

その方法を試した。土用を待てず土曜に。

すんごい旨かった。まじでやばかった。めちゃめちゃうまい。ちょっと探したが、同じ情報はWEBで文字で読めなかった。

食い道楽okdtとしては、これを再度言語化して伝搬しないことは許されまい。

まてよ、土用丑の日の食卓はもうすぐ終わるではないか。速報はtwitterで書くのが一番。虹が出てるのを教えてもらったお礼のような気持ちで、土用丑の日の食卓に伝搬すべく、140文字に収めた。

スーパーで買う鰻のうまいあたため方。水で鰻を軽く指で洗い流し、タレをとる。ペーパーで水を拭き取り、皮サイドを下にフライパンに入れる。水:酒=1:1でひたひたにし、アルミホイルを落としぶたに5分、中火でぐらぐらと煮る。ゆで汁をきり、付属のタレを加え「身」の側を下に返し、1分加熱。
http://twitter.com/okdt/statuses/2720425339

タレを洗い流しちゃうところが勇気がいるが、それこそ旨さの秘密そのものである。

お試しあれ。明日も鰻は売ってるから。

30 March, 2009

「空気」のパワー

「確かにおっしゃるとおりなんですが、その会議ではそれを指摘できるような空気ではありませんで・・・」

「空気」はエライ。"KY"なんて甘いもんじゃない。人の倫理観よりもリクツよりも正論よりもはるかにエライ。これが集団の中で流れてる時は、まさに絶対服従の力がある。

特に日本では、この「空気」に抗うと、いわば「抗空気罪」にてその社会から完全に排除され、鼻つまみ者とされる。市中引き回しの上打ち首獄門に近い目にあう。なんてことを、1970年代にばしっと論じた、山本七平著「空気の研究」という本を読んだ。彼はユダヤ人と日本人の違いだとかいう国民性分析に強い印象のある人だ。

Amazon: 「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

折しも、先日、何年ぶりかにお伺いしたフライシュマンヒラード社の田中慎一さんと2時間くらいディスカッションをした。その中で、さんざん感覚的なエリアの可視化の話で盛り上がった際、彼が「空気って間接話法的なんですよ。そこでメッセージのレバレッジが起きてしまう。」という言葉を発した。

「ああ」と納得したよ。空気ってそういうものなんだよな。

じゃあその空気とは、どうやってできるものなのか。そう、それは、誰かが意図的に、ある「空気」が作られた例を分析すれば、それがどのような要素によって成り立っているかわかるはずだと同著は述べる。そう、「空気」を変えるとか、作れる人間はものすごい強い力を持っていることになる。これはとてつもなく利用価値があるし、かたや、大きな脅威ともなりうる。

これはマーケティングの世界でも十分に面白い。ニーズを空気として読む。風向き、なんてこの文脈では極めてうまい表現だ。ここで、インフルエンサーマーケティングなんてのは、まだどっぷりプロモーションの領域にあるように思う。実際には、どういうメッセージを出すかについての「土俵」の構築に使うべきで、これこそがまさに「空気」の構築の世界に近いのだ。

集合知とか、集団IQだとか、衆愚とか、「企業知」とか、いずれにしてもこの「空気」の支配力、影響力という観点で考えると、Wisdom of Crowdこと群衆の叡智の発生要件の中での「独立性」「拡散性」というものの位置づけを理解できる気がした。

それにしても、この「空気」に絶対的な権力を持たせておくと、個人はリスクをとらなくていいから、なにかと都合がいい。不満分子がいても、集団は大きく逸脱しないよう抑制される。嫌われそうなことは言わなくていいし、それで集団が自滅しても自分のせいではない。

農耕民族的思考では、集団でさえうまくいく。集団の「雰囲気」が習慣を強制し、農作業に人を赴かせる。そのような背景から産まれたであろう、すべてにおいて正解習得主義の日本的教育システムが、この「空気」の権力を強めていると考えられる。

しかし、残念なことに、みんながこつこつ生きてるだけで将来が保証されるという時代ではなくなってくると、実際にみんなが従ってて安心な方向性を示す「空気」があてにならなくなる。この空気が、日本の人口をアジアで唯一激減に向かわせ、消費を押し下げ、労働を辛くし、企業の成長努力を否定している。みなさん、そうしてらっしゃいます、と。

そこをばさっとかっさらっていく、「空気」を読まずにぐんぐんいく連中がいる。外資、すなわち・・・Googleしかり、Microsoftしかり。萎縮している人たちをかっさらうのは、すくんでるうさぎを捕まえるように簡単なんだろう。

いや、それも、ご時世柄、そういう空気なんだな(笑)。答えなど、どこにもないことを誰もが言いにくいから、自己啓発、メソドロジーが売れているんだろう。空気は読まなくていいとは言わないが、この「空気」を肺一杯吸って生きてる以上、そこにイノベーションを期待しちゃいけないようだ。

惰性では物事は進まない。既存のどんよりとした空気の中に飛び込んで暗中模索し、何かを取りだそうとするよりも、その空気とやらを横目に、意図的にストーリーを作っていくほうが勝っている。

人の有りようを強く意識する日本人だからこそ、ソーシャルテクノロジで自らの意思を進めるための強力なヒントを見つけられるはずだ。

20 March, 2009

資格が有利かと論じる意味などない

某サイトで見かけてコメントしたこの記事「本当に転職に有利なのか? 日本の社会人大学院事情」。

あらあら、タイトルに「本当に」とかつけると、「そうでない例」に着目するわけだから、その路線で終えちゃうと、そこはかとなく浅い。タイトルと結論だけで、あからさまなバイアスが見えておしまい。中身は案の定、タイトルの「転職に有利なのかどうか」という問題にすら根拠(複数の客観的事実、あるいは論証済みのものが「根拠」の最低条件とすると)がない単なる意見の羅列。肝心の、就職状況における需要側の欲しいスキルセットと訓練の中身のマッチングには残念ながら切り込んでおらず、筆者のイメージとお仲間の世界。

So what? だからどうなの、という部分は読者が考えろというメッセージなのかな。

どうせ不況産業なんだからさー、そんなに浅い意見ならスルーしとけばって感じ。あるいは、タイトルが「本当に」はじまりで、結論が「本当だった!」なんてオチの記事だったらむしろ話題として面白いのに・・・。


専門資格が転職に有利かどうかという問いかけだけど。

「有利」って何をもって言うのかな。就業をかけた全体的な競争力、ではないでしょう。年俸?職責? 全体的就職難の中、資格が守備範囲を拡げるって意味でもないよね。

受け入れ側の募集に資格が明示されているとしましょう。薬剤師にしても医者にしてもネットワークスペシャリストにしてもPh.Dにしてもlawyerにしてもmbaにしても。それぞれの資格は就ける職種をむしろ狭めてしまう。さらに、そこでその資格ホルダー同士での取捨選択になる。それぞれにさらに熾烈な競争ができちゃうわけ。

そこが、資格など、足の裏の米粒だと言われるゆえんでしょうよ。つまりは、そのフィールドでの戦いがあることを度外視して、ラベルのために資格とってもしょうがないじゃん?ということ。


ここで間違えてはいけないのは、専門教育や訓練に、職業人として意味があるのかどうかとは別問題だということ。

たとえば、社会人大学なり大学院は、経験ありきで職能を伸ばす枠組みだろう。なにがしかの職業で専門をやると決めるんなら、成り行きの現場でのたたき上げに依存するより、どっか行ってちゃんと訓練するほうが確実に早い。ネットワーク効果も度外視できない。

だから、会社の研修だろうが、企業派遣の大学院だろうが、自腹で突撃だろうが、訓練の結果のラベルではなく訓練プロセスに注目してやれるやつにとっては、そういうものを「梃」にして、何倍も成長する確率を上げられる。

そういう行動特性が異なる人材に、進歩や変化のスピードへの取り組み方の違いがあると考えるのは、はずしてはいない。あとは、需要サイドにマッチするかどうかの問題で、それは転職競争力とは関係ない。

いずれにしても、訓練なんてそれぞれの個人の好みと直観に大きく依存する相対的な価値で、ゆえに「王道」を定義する必要すらない。

進歩と変化に関心があるんなら、やりたいことをやりきるために、現実的な手段を選択してがっと行けばいいのだ。

この元記事の山崎元氏がご自慢の人脈からの情報で評論されるんなら、どういう人に、どういう訓練必要で、それがどういう社会や企業のニーズに合うのか、見逃されてるのはどういうものなのか、なんてところをばしっと切り込んでいただきたいものだ。

# disってなんぼなのでしょうけども ;-p

07 January, 2009

無心に鍋を見守る人の話

年始から様々な出来事で振り回され兼ねない感があったのだが、はっとさせられる文章に出会った。ある保健教諭が書いたものだ。


・・・
保健とも教育とも全く関係のない本だが、・・・辰巳芳子さんの『あなたのために―いのちを支えるスープ』(文化出版局)である。

 実は料理の本で、題名を見て分かるとおり、様々なスープの作り方が載っている。もちろん、今晩のメニューの参考にすることもあるのだが、あまりに丁寧すぎる工程なため、慌しい毎日を過ごす私にとっては、あまり実用的意味はなく、むしろ、心を落ち着かせるための本と言ってもいい。

 ひとつひとつの材料を丁寧に扱い、ゆっくりと呼吸を合わせ、火と対峙し、なでるようにいとおしむようにスープを作っていく。そんなふうな気持ちで、私も毎日の生活を送っていきたい、と、この本を開くたびに思うのだ。特に大切にしている一節を書き出してみる。

愛につられ、無心に、
  よくなるように、よくなるようにと、
鍋中を見守る。
いつしか天は、用意のある人をつくり、
いざの時、必ず、手を差しのべる。

 保健室はなにもなくて当たり前。だからこそ、『用意のある人』でありたい、と、思っている。
edu.log :: 見てみよう!学校 - 新着学校情報


すばらしい。恐れ入りました。

エモーションとロジックが見事にマッチする情景を見させてもらった。心に促され、論理的に行動する。それは循環することがある。

だから、人は、起きている事象について情報を得ると、それが仮に自分のことでなくても、ときに一喜一憂し、ときにあれやこれやと言い、そして介入したりする。他方、そこから少し離れたところで見る立ち位置の心境は「ひとごと」と冷ややかに映るものだ。さもありなん、人のことにかまけているほど、楽ではないし暇ではないのだから。

しかし、どちらでもない人がいることを知ると救われる。

かつてレストランの厨房でバイトしていたことのある私は、そこで料理の基礎を学んだ。家族に、友人に作るときほど「おいしくなーれ、おいしくなーれ」と声をかけながらスープを作る心境は理解できるつもりだ。仕込みに時間がかかるのを承知で、タイミングを見計らい、たとえば少し火を弱め、たとえば少しの塩を入れる。


そう、腹のくくれた人の行動って、そういうことなんだよね。

少し長めの尺で動くメンタルを大切にしてみようか。



03 January, 2009

情報科学がたまらなく面白いという話

ここ最近、情報科学がたまらなく面白い。いまさら認識したのかと思われる向きもあろうが、C/UNIX系プログラマー、ネットワーク構築、セキュリティ、業務プロマネ、そして技術ベンチャーとやってきたが、飽きもせずにやってきたのは、それぞれの時代の情報技術(Information Technology)の先端を垣間見ることができるというメリット以上に、情報科学(Information Science)へのあこがれだったんだ、ということ。


情報科学は、情報技術を実際に利用している者の視点から見た様々な問題を扱う。まず技術ありき、のアプローチではなく、まず問題(解決)に着眼するアプローチである。
情報科学 - Wikipedia


関心の根っこは、人が何かの情報に触れるとどういう行動になるんだろう?あるいは、ある行動は、どんな情報に刺激されたものなんだろう?というような、そういうこと。情報そのものをデータとして取り扱うことの楽しさ以上に、何か「効果」を発揮していくところに、非科学的と言ってもいい、人間の介在によるあいまいさとか、ゆらぎとか、あるいはイキオイのようなものが見られる。

これを「情報科学」と呼ぶのだと知ったときはとてもうれしかった!

科学ー何度も実験し、確証のようなものを得ていくプロセス。極めてあいまいな循環であり、ストックとフローの混沌である。これに「情報」というものをかけあわせてフォーカスしたものを情報科学というのであれば、とてつもなくエントロピーが高く感じる。マーケティングもファイナンスも組織マネジメントも、情報科学の適用だと思えば相当面白い。

情報技術的傾向として自分自身について考えるに、、システム屋ゆえだろうか、根深い阻害要因を認識した。たとえをあえて挙げると、直感を信じすぎてデータの隅々に向き合うのをめんどくさいと思うきらいがあること、また自分が仕組みに満足するとそこでおなかいっぱいになり、収束させる傾向があること。これは内部的阻害要因、メンタルブロックと認識した。

あれ?社会一般ってそういうのをどうしてるんだっけ?

そうこうするうち「社会科学技術論」というものに出会った。ここでは、社会的に「これでいい」つまり妥当だと思われることというものをどうやってコンセンサスを取るんだろう?という問題へのアプローチを考えるものだ。たとえば、公害規制、化学調味料の毒性、漏洩放射能の危険レベル、もっと身近に言えば、携帯電話の電磁波レベル、狂牛病対策検査など規制が明確に数値化されてるけど、どうやって決めてるんだろう?というような。

人体実験できるわけでも、何十年もかけて被害を見てから答えを出して良いわけでもない。ここに、科学的実証を前提とする科学の限界がある。また、問題解決のための新しい学説のデビューには、学会ごとに妥当性基準が異なるという構造的な問題がある。これを妥当性境界というんだそうだ。このボーダーが予想外に分厚く、クロストークがなかなかできない。実際、社会コンセンサスは科学者だけでは成り立たない。

だからといって、一般世論による意思決定でも不足だ。山崎はるかさんが群衆の叡智サミット2007のときに持ち出した話で、「これは食べられるかどうか」「この金属に毒性があるか」という問題を解決するのであれば、民衆には血であがなわれた実証をする以外にない。

何もしないわけにいかない。何か決めなきゃいけない。しかも妥当な結論にな!

そこで、社会的妥当性、組織的妥当性、経済的妥当性、科学的妥当性というそれぞれ無視できない妥当性境界を持ち出し、さあどうするよという激論をせざるを得ない。それには、微妙な変化を社会モニタリングすることも必要になる。定性的なものもなんとか定量化して分析したりしなきゃいけない。これは大きな課題である。全員に仕事があるから盛り上がる!

dankogai曰く、バランスを取るのは、あなたの仕事じゃなくてみんなの仕事だそうだが、バランスなんてものはぐらぐらするから面白いのだ。あれ、別に矛盾しないんだっけ。

それぞれの「妥当性」にうまい具合に重なるところがあればそこが合意点のドラフトになりうる。しかし、一見どこにも接点がなければ、エアポケットが生じ、へたすりゃ何年もほったらかしになりかねない。そこで、日本はどうしてるかって、他の先進国はどうしてるんだなんてところで決める傾向があると言われるが、他国がばりばりやってても華麗にスルーしてることもある。

実に面白いと思わない?

私としては、この曖昧な「情報科学」を追求する自分のへたくそな試行錯誤模様を書き残していかなければならないと思い、年末から、tech tech okdt(てくてくおかだっち)なるテクニカルフォーカスのブログを書き始めた。「テクニカル」と聞くとどん引きされる方も少なくないのだが、ここでは、この「情報科学」に重心を置きつつ、ソフトウェア技術からはじまり、社会科学、経営技術なんてのも意識して書いていこうと思う。

あえてはてなを使っているのは、テーマのなじみ感、読者の凝集性の高さかな。こういう話題は濃いところに放り込むのが正解。(不満もあるよ。不満はエネルギーなのでこれまた良い)。はじめたばかりなのに、予想以上にアクセスがあるものだね。

新年早々、tech tech okdtに、駅伝往路を見ながら書いたのをご笑覧あれ。これは、社会動向の数値化から何かの気づきをひねり出す情報科学の試みの本年の「書き初め」としたい。

1.走る人の増。(東洋大往路優勝おめでとう)
2.家計消費の改善
3.美味系消費は好調。カニ、マグロ
4.個人投資家急増ふたたび
5.お手軽海外旅行へ。成田利用は地方空港+ソウルへシフト。
6.自己に投資するサラリーマン
7.ホームレス支援施設の利用増。
8.全国的な高齢者の刑法犯増
9.中国株下落も、まだまだアクティブな中国人。日本への旅行者・日本定住者の増。そしてクレジットカード発行数激増。
10.地方での変動。人口シフト・議員年金・外国人

このご時世に右肩あがりなものを10個、必死こいて探してみた



もちろんツッコミどころ満載だ。視点さえあればネタには事欠かないはずだ。皆さんも楽しんでみられては。

本年もよろしくおつきあいくださいませ。

09 December, 2008

Innovationと「へんなやつ」

汐留のミラクルリナックス社セミナールームで開催された、高専カンファレンスで15分スピーチをさせていただく機会がありました。

ITmediaの記事「高専カンファレンスから伝播する高専生の「高専道」」

わたしのスピーチは、「Innovationと高専生」とタイトリングしました。



変化、進歩をめざす気持ち、これはプロフェッショナルにとって最も大切な原動力だと思います。でも、残念ながらそのような人は決して多くない。自分がその少数派だと気がついたら、そのポテンシャルを活かしていこうよ、しかも徹底的にね、というメッセージを込めました。

テックスタイル・グループならびにその関係者には、偶然ですが、前のめりに楽しい激しい経験をしてきた高専卒業生が少なからずいます。きっと自分のアドバンテージを活かしやすく、さらに成長の痛みを感じられる場所なんだと思います。

# 新卒、中途いずれも、就職のご相談は歓迎していますよ。


さて、このカンファレンスで見たプレゼンテーションで、面白かったものをご紹介しましょう。

1.「Webと複雑系」june29さん

このライトニングトークでのプレゼンテーションでは、複雑系を専門にするjune29さんの軽妙なトークがありました。そこで、Webの行動で生じるロングテールのデータは、対数を底にとると右肩下がりの直線を描く、というデモがありました。はてなブックマークなどをプロットして見せていましたね。

しかし、偏りが生じないほどノンジャンルなテーマで、かつ同質性のない母数があることを前提とすると、基本的に個別の行動特性をプロットすると正規分布に近づいてくるという統計のリクツからすれば、ロングテールなグラフを、対数を底にとってプロットしなおすと右肩下がりな直線を描くのは当然です。

見所はそこじゃなくて、むしろ、その直線になるはずのものが、現実にはまっすぐではなく、若干ゆるやかなカーブを描くことがあるわけですが、なぜゆがむか、ということ。ここです。

そのカーブ度合いと集団の特性、あるいはテーマの同質性には相関があるはずだと思うんですよね。で、もっとたくさん描くことで仮説検証はできそうです。正規分布での中心からの振れ幅を経済予測では「リスク」といいますが、その直線とプロットした曲線とのずれなんかもそれを可視化するツールになるポテンシャルがあります。うわー、使えそう!


「群衆の叡智サミット」をやってきて、拡散した群衆の行動の価値は自明なのですが、集約のメカニズムはまだまだ未熟。codeなにがしも、3度目のリリースをした予測市場Predicionもことさらに盛り上がってきているところですが、もっともっとやれることがあるはずだと思っています。


2. 「高専生に大切なこと」井上恭輔(きょろ)さん

井上さんはプロコンで4年連続入賞している凄腕プログラマ。彼のその創作意欲は、常人の域を超えているように思いました。だって作るもの作るもの、大爆笑なんですからw そのプロセスで学んだことが、ソフトウェア・デザインではなく、むしろ人間の価値観とのマッチングの妙にある、というとことがツボでした。

この人の物作りからは引き続き目が離せない。


3. 「高専生 existing はてな」hxmasakiさん

ライトニングトークで登場されたhxmasakiさんは、今、はてなでバイトしてるんだそうです。インターンには一度落ちてるんだって。で、彼は材料だとか流体力学とかそっち系の専門の人だそうで、はてなで一体なにやるんだろう?と自ら思っていたら数日以内に大忙しになったんだそうな。

なんとサーバーの筐体を作ってるんだって!しかも3Dで空気の流れをシミュレーションまでして、最高のサーバを作る努力をしてる。そうだよね、材料さえあればなんだって作れますよね。わたしは電気工学科でしたけど、電気回路で演算ができるなんて学術的なことよりも、オーディオだろうがラジオだろうが、電気で動くものならなんだって作れる、ということのほうが根っこにありました。

そういう感動、忘れちゃいけないですよね。


他にも、高専の学生時代をほうふつとさせる、「高専病」のお話も面白かったなあ。女の子、少なかったものね。女子高専病も大変なんだね。神戸高専でも女性は「例外なく全員」モテモテでしたよ。なんかおかしいよね、あの現象w

まあ、冗談はともかく、高専生は常識レベルに偏りがあり、卒業してから苦労して学ばなければならないことが予想外にたくさんあります。でも、それをこなしていくだけの学習力は訓練してあるはずだし、プライドが持てるだけの経験もしてるから、がんばれるはずだ。

これが高専のプロフェッショナル育成メカニズムなんだろうと思います。

当日、児玉さんとしみじみ話したこと。「高専で学んだコンテンツそのもので社会で役にたったことなんてこれっぽっちもない。でも、経験したことから得たプロセス力は破壊力抜群だよねー」と。

新たな視点で分析するにも、ものづくりを粛々とやっていくにも、つまるところは変化と進歩を志すことだけがプロフェッショナルの価値の源泉であると思う次第です。

慢心せずに勉強と経験を積み続けていきたいものです。


イノベーションを目指す気合いの入った「ヘンなやつ」、テックスタイル・グループでお待ちしています。就職相談はもちろんのこと、まずは、一度遊びにいらしてください。

ここでそーっと言いますが、インターンも高専生は優先的に歓迎しますよ。


追伸:当日の講演の模様がニコニコ動画にもアップされました。はじめのほう、マイク握ってしゃべっちゃって音割れしてますが、すぐに改善されますので我慢して見てください。

27 November, 2008

Risk Lovers vs Strategic Futurist

米Autodeskのウェイン・ホジンズ氏によると、Strategic Futuristは世界で20人らしい。

同記事より:

問題を分析するときに、個々の事柄に着目してしまいがちだが、これでは問題の一部しか見ていないことになる。そうではなく、「物事を一般化し大きな単位にした後で、小さな単位に落とし込んでいくという二極化した考えが必要だ」とホジンズ氏は述べる。


演えき法と帰納法で俯瞰的にロジカルシンキング、なんて、別段スペシャルなアプローチじゃないよね。「戦略」やるんならなおのこと。

むしろ、そのロジカルシンキングの限界を意識しなきゃだめで、たとえば、すでに起きたことのある事象、つまり事実のみを根拠とする前提であるため、変化の激しい領域や、未踏の領域にはほとんど通用しないということ、とか。そういうことを指摘しないと「*未来*戦略家」返上ではないかと。

# この記事、全面にわたって突っ込みどころだらけなのですが、
# 冗談はほどほどにして、と ;-p

「本質探し」これは面白い。

単に分解と合成をするだけでもたいてい面白いが、そこをさらに軸を出して、「本質」なんて謎めいたラベルのついたお宝を探すわけ。おお、これだ!なんて思いこんじゃうし、人にしゃべっちゃうし。「本質」とかって言葉がついてれば、なんか納得しちゃったりして。

# もしかして、「本質」って、最近の自己啓発系、知的生産系を凌駕するバズワードなのかも?(ぎゃはははと笑ってください、ここは)

閑話休題。

けど、「本質」だと思ったことが本当に本質なのかはどうやって決められるんだろう?

表層的なことよりも「本質に近いと思われる」ものは複数あるでしょうし、その最大公約数をだしてみる、という感じなのかな。それでもViewが違うと答えが違うよね、多次元だから。

「これが本質だ」という思考ゲームとか、なにか発見できるって楽しいけど、その実は腹落ち感程度なのではないかな?それでも、そこでえいや!と決めて行動できることのほうが、本質の追及につながる行動なのだと思う。

過去的な、理屈と情報勝負の分析なり解説なりによるretrospective問題解決は答えがあるだろうけど、未来の、感覚的なprospective分野はとてもchaos(カオス)だからいろいろやり方が拡散していいわけなんだよ。

だからrisk loversはそこでプレイヤーとして動くんだ。たのしーい。

28 July, 2008

Last Lecture - Randy Pausch逝去

http://jp.techcrunch.com/archives/20080725dr-randy-pausch-carnegie-mellon-cs-professor-dead-at-47/
より、
Last Lecture - 「最後の授業」で知られるランディー・パウシュ教授(カーネギーメロン)がとうとう亡くなったとのこと。大前さんもこの人の話をあるコーナーで一番に取り上げていた。

まだ知らなかったら、本読むより動画で授業を見た方がいい。全編バージョンもいろんなサイトで公開されているし、「最後の授業」とか「Last Lecture」で検索すればざくざく見つかる。日本語のキャプションが入ったものもあるようだ。(初めて見たときは無かったけど。)

さて、テーマを絞った話だとしても、今からやるステージが、「最後」だったら、自分は何を伝えたいのか、なんて考えてみたらどんなところが変わるのだろう?

彼の、悲壮感のない、それでいてメッセージ性のとても強いその「Lecture」は、その内容はさることながら、「Last」に向き合う人としての姿勢をLectureするものだと感じた。

後に、Randy PaucheのLast Lectureは私になにか大きなものを残してくれたと言えるようでありたい。

02 June, 2008

木を育てる人と森を守る人

森に行ってみたことがありますか。

私は、梅雨入りした時期の秩父の森とか、大好き。

森の全体ビューを楽しむ人もいれば、個々の木々を見て感動する人もいる。ちなみに、今朝の朝礼で尋ねると、そこにいたスタッフの大半は個々の木々をじっくり見たいタイプで、わずかながら、森としての全体の景観を楽しみたい人がいた。

いずれにしても、森としての成り立ちが、個々の木々の魅力に不可欠。すなわちWhole-Partの関係性。この関係には学べる要素がたくさんある。森に立つ看板には、その森の歴史やなりたちのような概要から説明が書かれていて、続いてそれぞれの個々の木々や小路の解説に言及している。木も森も見ろ、と。

さて、会社から業界という枠組みに拡げて考えても、我々の開発活動はPartでしかない。できることは、せいぜい個別最適。

統計によると、2006年現在、インターネットの利用者は世界人口の16%、日本では60数%にすぎない。そこで利用者にとって快適なツールを作っていくことは、現時点では人類社会全体からすればプチ富裕層のための個別最適にすぎないと言わざるを得ない。人類の叡智を結集できる枠組みにはほど遠い。

だから、それを理解した上で、レバレッジを狙うことに集中しなきゃいけない。たとえば、インターネットユーザを介して、その向こうにいるインターネット利用者ではない人びとや地域にプラスの影響をもたらす方向を狙う。でも、その結果、out of the Netからのフィードバックをどうやって集めるのか、考えなきゃいけないことがたくさんある。それでも、リアル・コラボレーションのハブって何だろう、これをテーマに考えなきゃいけない。

それを、先日LUNARRの高須賀さんに話したら、「それは、めっちゃ考えなきゃいけないけど、答えは出せそうな問題ですね」と言ってもらえた。

だからなのかな、リアルにイノベーションを目指している「人」同士のケミストリを強く誘発する活動にはとても意義を感じる。それが、OSBBだし、WASFORUMだし、WOCSだし、JBPだし、IPAでの活動にもそれがある。そして、ほかでもなくテックスタイル・グループの目指しているもの。

いずれも、大変なんだけど、すっかり楽しめることがカギなんだよね。

じゃあどうするのか。

個々の木をきめ細やかに育てる仕事も、全体として森を守る仕事も、両方とも重要。同時に、理解しあわなければならないけど、両者ともゼネラリストになる必要はないんじゃないかと思ってきた。

「いろんなことができる人」と「なんでも屋」は違う。自分は、やりたいことなら何でもできるようになりたいけど、それでも「なんでも屋」と言われちゃったら負けだと思う。

(個別最適至上主義でなんでもかんでもかけ算方式で全体に展開しようとすると、合成の誤謬(fallacy of composition)が生じ得る。また、ゼネラリストのオーバーコントロールは個々の進歩を容易に阻害しうる。)

ここは、楽器の演奏とバンドの関係と同じで、それぞれのプロフェッショナリゼーションが、他者の視点からの試練を乗り越えるべく気持ちよいGrooveを出していこうと進歩すると、それぞれが外部との共通的なインターフェースを持つようになるので、ひいては全体として調和と成長の両方をもたらしてくれる
ポテンシャルになる。

先日のJBPは11曲、入れ替わり立ち替わり加わったセッションプレイヤーは15名、うち、junoさんはキーボーディストかつバンマス。彼には強いこだわりと意見があるが、それがかえって、全員がいい感じにまとまるきっかけを作っていた。さすが、junoさん。

全体の成長のためを考えれば考えるほど、むしろ逆に自分に軸を強く持って、それぞれのプロフェッショナリゼーションを磨いていかなきゃ。本も読むし、人にも会うし、ベースも練習する。

それはそれは、スリリング。

木を育てる人と森を守る人、個別最適と全体調和、どっちも軸が必要だということなのだと。
だから、そこを磨いていかないと成長しないと思うんだよね。

よっしゃ、一緒に何かやったろうじゃないの、という方、会ってくれませんか。

28 April, 2008

人の多機能性と群衆の叡智

gihyo.jpの記事、「疾走するネットダイナミズム第一回 群集の叡智 ー 集合痴にならないために」にインタビューをしていただきました。ちょっと写真がどうなんだろう、と、社内関係者ではもっぱらのネタですが(汗。

その記事で言及されていたとおり、2008年5月21日に、昨、2007年11月1日に開催した「群衆の叡智サミット2007」の続編を東京、丸ビルホールで開催することになりました。CNET Japan, RBB TODAY, Markezine, gihyo.jpなどで早速報道していただいています。

群衆の叡智サミット WOCS 2008 Spring
http://techstyle.jp/wocs/2008spring/

前回はmixiのコミュニティでのやりとりに始まり、当日はライブアンケートシステムを使い、フィードバックはブログでの反応を集めたりしました。

今回は、より近くコミュニケーションを取れるように、facebook、twitterで事前・事後のコミュニケーションに拡げてみることにしました。(WOCS2008springページのCATCH UP WOCS!というコーナーをご参照)よしおかさんのご提案で、当日は、Ustream.tvでリアルタイム映像配信ができるかもしれません。品質、帯域共に不明なことも多いですのですけども。IRCのようなライブチャット機能があるので、うまくいくといいなあと思っています。


まあ、そんなことよりですね。

上記の「疾走する・・・」のインタビューで話したことの中で、記事で記載されなかったことがあります。

それは、私が「群衆の叡智」というコンセプトを特別に魅力に感じている理由。どうでもいいからネタとして落ちたのでしょうけど、自分のブログなので(自分が忘れないうちに)書きますね。

それは「人の多機能性」です。結果的に多様性、とも近いですけど、むしろ多機能性、です。

人は誰でも、多かれ少なかれ、何かの専門、得意分野、好きなことがありますよね。でも、そういう分野の知識だけで生きてるわけではない。「何かのものすごい専門」であることって、せいぜい数年の経験かもしれない。実際には、それ以外の、もっとたくさんで複雑な経験、意見、情報を取り扱って生きてきたはずで、つまりもっと言えば効果を引き起こせるポテンシャルを持っていて、はたまた自分でも全く想定外の効果を出してしまうことがあります。

情報の出し手と受け手で、そのタイミングがうまくあうと、たとえば調味料の中ぶたの「穴」を拡げ、たらこマヨネーズを発明し、見知らぬ家庭の問題を解決し、災害の被害を軽減し、話題を先行的にキャッチし、辞書ができあがり、ソフトウェアを改善し、エイプリルフール映像でペンギンが飛んでる姿に注目させたりするわけです。専門家が一生懸命やったわけではないのに、ひとりひとりの固有の、それぞれの自由な知見が、大きな変化をもたらす知恵として貢献するわけです。

専門家どうしの、オープン・イノベーションの原理よりも、参加機会が広いわけですから、もっと広い可能性を感じさせます。

これは、そもそも「人は(自分が思っているよりはるかに)多機能である」という前提があるからだと思うわけです。

他方、「集合愚」とか言われますけど、それは「群衆」の「集団化」に関する整理をすればわかりやすい。いったん集団になってしまうと、濃くなってしまい、利害関係の一致する部分では思考にまでコントロールが強くなる。そうすると、集団浅慮に陥ってしまう、というようなことを、ジャニスさんは言っていました。

でも、「わかってる」人同士で「仕事」が進むと、専門的に掘り下げるスピードが上がるという効果も見逃せない。でも、成果の妥当性は衆目にさらされることでブラッシュアップされる部分もある。まあ、いろんな評価指標があるわけです。

人の多機能性、たとえばそれぞれのアンテナがさまざまで、進歩のベクトルもいろいろで、それゆえに想定外のポテンシャルがあるんだということを感じると、うれしくなってきませんか。


たとえば、叡智を引き出すメカニズムって何?という部分。

やることそのものはシステム化、なんだけど、本質は、実に人間くさい部分にトライするということ。強く意見がある問題、あるいは答えがわかる質問を見ると、ついつい答えちゃう。仲間がいるとわかると、盛り上がっちゃう。寂しがり屋の一人好きもいる。拍手に弱く、ねたみにもろい。人が自分の中から「確からしい情報」を出す、あの瞬間は、脳の中で何が起きてるんだろう。それが大勢の中で起きると、何が起きるんだろう。

こういうのをメカニズム化するのは、いわゆるシステム、ITの話というよりは、人間を学ぶということですよね。いみじくも、先回のWOCSでは、「群衆の叡智は、thinkの集合というよりは、feelの集合という観点があるはずだ」と山崎晴可さんがおっしゃっていました。実は、事前のブレストで出た話だったんですけど、本番でのそのトークに大勢が納得。「いや、thinkの集合もあるはずだ」と山口さん。「マズローの5段階欲求」との関係図は、松隈さんのスライドにも、福岡さんのスライドにもありました。いいねえそういう議論。

で、今回も、リアルにどんな方法があるのか、いろんなところのエッジ観点をしゃべれる人が集まってくださいました。そっから見える景色はどう?

どんなコンセプト議論が飛び出すやら。とても楽しみです。


来場者のコメント参加システムもあります。ライブ討論会の温度が上がりますよ。ケイタイでオーディエンスの意見を集め、スクリーンで可視化。こちらは、受講手続きがすっかり完了した皆様には事務局からお知らせしているようです。チェックしておいていただければと思います。


# 連休突入ですけど、お申し込みはお早めに。(宣伝

群衆の叡智サミット WOCS 2008 Spring
http://techstyle.jp/wocs/2008spring/

20 April, 2008

Schoolhouse 2でM2を乗り切れ

やんなきゃいけないタスクをキャッチアップすることに、いちいち時間を使うのはもったいない。

実は、M1をなりゆきで過ごしたツケを年度末にほうほうの体で消化し、やっとのことでM2に上がれたのですが、卒論を含むタフなM2の一年は、昨年よりも全体像を把握して組織的に物事をこなしつつ、学びの濃度を高めたいものです。

整理すべき対象は多次元的です。クラスごとに異なる受講パターン、論文提出、輪読会、週次タスク(realtime online case studyなど)、あと英語のトレーニングも・・・。これらの煩雑なスケジュール管理やタスク管理は粛々とオン・スケジュールでやりたい。でも、それぞれのタスクは難易度も様々だし関心も違うから、プライオリティもさくさくつけたい。

ツールとしては、ミルクの時間も忘れないというほどの簡単さが売りのRemember the milk、田口さんのところの目標管理ツールのchekpadは普段から使っているのですが、上記のように多次元性の高いもののタスクの立て方にはどうにもしっくり来ない。

学生の、かつMacユーザの皆さん、朗報です(w)。

Mac用のソフトで、Schoolhouse 2というツールを見つけました。これは以前からあるTask Listというソフト(これはバグだらけでとても悲しいツールでした)の後継のようです。(不完全ながらも、Task Listからのデータのimportにも対応しています)

Schoolhouse 2をLeopardで使う人には重要なTIPSがひとつ。このアプリケーションは、現状では「Rosettaを使って開く」という設定がMUSTです。Finderでこのアプリを表示→プレビューから「詳しい情報を表示」→「Rosettaを使って開く」のチェックボックスをONにしておくことです。(この情報はi use thisで見つけました) これで動作が安定し、一部存在した不可解なフリーズがなくなりました。

「人生勉強」と割り切れば、これは仕事の整理ツールにも使えるかもですよ。

・・・おっと、最近、ライフハックでは仕事にならない、と思ってるんだった・・・

この話はまた近いうちに。

25 December, 2007

「とんでもない、責任は常に権限の数倍あるよ!」

組織規範の考え方に関する、「権限には責任が伴う」という「常識」に対する反論として聞いた。エクセレントカンパニーならではの、コンセプチュアルな一言だ。

かねてより、「権限と責任は一致する」という考え方は、いまひとつしっくりきたと言われることは少ないものだ。だいたい、権限が不十分だと思っている人に、余計なことをしないように抑圧する場面で用いられがちな言葉だからなのかもしれない。その組織に官僚的な文化があるとなおのこと。

そこにきて、この「とんでもない。責任は常に権限の数倍」という考え方は全く違った効果を生む可能性がある。自分の役割、立ち居地を積極的に果たすための自覚を持たせ、その上で責任の大きさを考えさせる。

これは、しっかりやろうよ、との内面的動機付けを強める、応援的なメッセージだとさえ感じられる。

この意識をしっかりと社内に浸透させたいし、社外に対して自社のサービスがこのコンセプトを実践していくにはどうすれば良いか考えたい。発注要件以下で請求書書いてるIT業界のメルトダウンはもうとっくに始まっているしね。

権限って何だ?自由な選択肢としてやれること、と置き換えるべきか。

とすると、人間としての責任は、人間が自由にやれるバリエーションの何倍もあるに違いないことを理解しなきゃいけないということか。

19 December, 2007

プレゼン資料公開サイトhandsOut.jpオープン

昨日、2007年12月18日、プレゼン&ドキュメント公開・共有サイトHandsOutをリリースしました。

http://handsout.jp/


プレスリリース(日経プレスリリースへの掲載)

ビジネスの世界はもとより、要素技術に関しても(オープンソース、セキュリティなど)プレゼン資料は毎年たくさんできあがります。

それらの資料は、いろいろな人がそれなりの労力を払って作られています。ブログやWikiとの性質は異なり、生で大勢の共感を生む目的を持っているため、概して情報の価値がとても磨かれているものです。しかし、残念なことに、プレゼンの性質上、公開範囲は限定的ですし、一瞬で露出が終わってしまうために、波及効果が限定的になってしまいがちです。知られないまま終わるものもたくさんあります。

これが、常に「On Stage」な状態にしておける「プレゼンテーション公開サイト」を作った理由です。いろんなフォーマットのアップロードを変換できるようにしてあるところは技術的にはキモですが、それはすべて「情報の共有」という目的にフォーカスしているためであり、それはテックスタイル・グループの戦略上、とても重要なことです。

もちろん、限定公開やパスワードでの保護もできますから、レビューなどにも使えます。大画面モードではそのまんまプレゼンできますから、ブラウザさえあればどこででもプレゼンができます。(^-^)/

ブログパーツも、最初から実装されています。


12月18日のプレスカンファレンスでは、hykw隊長がプレゼンしました。

プレゼンやワープロ,PDF文書を共有しFlashで軽快に閲覧できるサイト「handsOut」オープン
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20071218/289749/

ブログパーツとしての埋め込みも可能
PDFやpptをFlashで共有できる「handsOut」オープン
http://www.atmarkit.co.jp/news/200712/18/handsout.html


# 開発者のBakishinくんも出たはずなんだけど、写真が出てないなあ。
訂正:ITProの記事に掲載していただいていました!



サンプルのプレゼンがokdt謹製のものばかりなのはご愛嬌。むしろ、「このページでくるかー!」なんて思っていますよ('-' )

これからしっかりめきめき育てていきますので、ふるってご利用ください。
handsout.jp

13 December, 2007

OSSとイノベーション2007

本年、2007年は、「OSSとイノベーション」というタイトルで、壇上に上がらせていただく機会が2回あった。いや、むしろ、オープンソースソフトウェアとイノベーションの関係をはっきり語るよう、あえて自分にその命題を課したと言っていい。おかげでいろんな勉強ができた。そして最後となる1回は今週金曜日、秋田県秋田市で登壇することになっている。

最初のものは、4月に大井町で開催された、日本技術士会の有志で開催されているIT21の会。ここには、レガシーな技術を大切にしてきた大勢のベテランと、今後のITの変革をどう捉えるかに関心の高い若い人がおられた。大勢の受講者から、目からうろこが落ちたとの感想をメールでいただいた。驚くほど高年齢の方々が多い会の中で、メールをくださった方々は、おしなべて若手で、アグレッシブでハングリーだった。もっと別の世界に目を向け、そこに自分の身を投じるべきだ、とのメッセージを述べた。それだけでそこに行って良かったと思った。

次は、6月に開催された、UNISYS BITS2007でのパネルディスカッション。筋書きとしては4月のものを踏襲し、さらにパネラーの猛者ぶりを発揮していただくシナリオで進めた。レポートも掲載されている。あえて説明すると、これは例年開催されてきた、オープンソース/Linux関連のパネルディスカッションの延長に位置づけられるもので、UNIADEX社の皆様にはおなじみのもの(ネタ?)としてご愛顧いただいている。

UNIADEX松隈さんとはかれこれ7年はこのライブをやってきた。人が変わり、会社が変わり、ビジネスモデルが変わり、市場規模も変わった。そのひとこまひとこまを毎年キャッチアップしてきたこのライブが、UNISYS BITSの大舞台のトリで開催されたのは大変意義深いことだ。高くかってくださった皆様に感謝申し上げたい。

もちろん、技術革新はかっこいいことばかりじゃない。高給が降って沸くものでもない。むしろ普通に痛みが伴う折衝の連続であり、デスバレイ(death valley)もある。それがわかっていてもそこにチャレンジを傾ける猛者がそこにいたわけで、ゲストとして生の声を発してくれた。こういう姿を見ることで、技術屋やってて良かったと思うものだね。

さて、最後に、今週、秋田県に出かけることになっている。秋田県は、私にとっては、これまで接点があった県ではない。とても寒いところだろう。しかも調べるに県の経済情勢は良いほうとは言えない。10年連続で自殺率1位。比内鶏関連での問題もあったが、おりしも2007年を表す漢字は「偽」に決まったそうだ・・・。子供たちが殺された事件の裁判もあったことが今日報道されていた。もちろん、経済指標関連の統計資料を見ても、他県に比べてITが活発とは言えない。正直、関西人泣かせの話題ばかりだ。

しかし、しかしだ。そこで、なんとかがんばってイノベーションを起こそうとしている人たちがいることは確かなのだと思う。あきた企業活性化センターは大勢の起業家を育成しようとがんばっているし、秋田市のチャレンジオフィスあきたのこのページにも、地場産業としっかり組んでがんばろうという強い息吹を感じる。NPO法人あきたITこまちは、現場で働く多くの女性たちに驚くほど的確な情報提供を行なっている。当日も来てくださるそうだ。本年度、秋田県はOSS実証実験に参加し、県の情報システムにOSS運用基盤を採用することによって、ベンダーニュートラルな管理基盤を据えようとがんばっている。

マイクロソフトはベンチャー育成プログラムに秋田を含めている。えらいな。脱帽だ。いずれにしても、難しい状況で奮闘しておられる方々に、私はなんと言えば良いのだろう?私と秋田県の皆さんとの明確な違い、それは、おそらく、視点だ。ここからはこんなものが見えます、という視点を紹介できればと思う。そして、私が学ぶつもりで多くの質問を投げかけてみたいと思う。

変化しようと思う人が変わるチャンスを得られ、それゆえに集団が変化するチャンスを得られ、そして文化が醸成されていく。ソフトウェア技術を身につけながら組織の枠組みを越えたコラボレーション文化を理解するためには、OSSはもってこいだ。仕事を取ってくる人間は、情報の伝達とコラボレーション(Web2.0、UGC)をキーワードに情報と技術の新しい流れに注目させて取ってくればいい。資金的脆弱性でさえ、イノベーションのトリガーになることは珍しいことではない。また、OSSを使う仕事でない人でさえ、コラボレーションを軸としたそのコンセプトから得られるものがある。

雪国でアツくがんばっている人に会いに行ける、師走の金曜日を楽しみにしている。

あきた企業活性化センター
OSS活用促進セミナー「進化するOSSのもたらす影響」

23 November, 2007

ミシュランガイドのジレンマ

「ミシュランガイド東京」がバカ売れだそうだ。何件も本屋を周る人たちが続出。専門家によるオピニオンの典型で、群衆による選択の機能とは遠いところにあり、むしろ群集心理の機能によって話題になっている。梅田さんの力作「ウェブ時代をゆく」と近いタイミングでこれが来たのもこれまた妙を感じる。


買い手の欲求とこのガイドの機能を考えるに、それはアブラハム・マズローの欲求段階説の3段階目あるいは4段階目に対する期待を含んだものだろう。その源泉は主に話題性にあって、それらしい専門家の観点(スコープ)を垣間見れる期待、そして「プロの視点」を「マスの話題」に持ってこれる期待だ。自分にすでにオピニオンや情報源が十分あるかどうかは関係ない。

極論すれば、何件も本屋をまわってミシュランガイドを買う心理的欲求と、クリスピークリームドーナツを2時間かけて並んで買う心理的欲求は同じだ。

ここで問題は、提供者の違いだ。ミシュランガイドは実際の提供者ではなく、ポインターの一覧だというところで、それがもたらすサービス業界そのものへの影響がある。クリスピークリームドーナツは薄利多売式のマス向けサービスを前提としているが、ミシュランガイドが示すプレミアムなサービスはそうではない。ガイドに掲載されてしまった店すなわち、専門家が認めた、”チェケラ”なサービスが掲載されており、それに導かれて大衆が電話をかけ、押し寄せていく。

プレミアムなサービスを提供する店というのは、プレミアムであるゆえに、対象はきわめて限定的なのだ。客が店を選んでいるのではない。店が客を選んでいるのだから。

だから、掲載のみならず調査さえ拒否した店も多いと聞くのは驚くに値しない。ミシュランガイドに掲載された「優秀」な店は、これまでの「優秀」な客を失いかねない。掲載される店に、果敢にもあえて拡散性の高い人たちの評価を受ける狙いがあるとしても、評価の集約方法がないためにそれは機能しない。

リスクのほうが大きい場合、ガイドによってマスが殺到するのをいやがる店は、かようなマス・アピールにつながる活動を一層拒絶するようになる。そのような店は、マス・マーケティング以外の方法で粛々とぴったりの客を得続けられる。だから、「本当にプレミアムな店はミシュランガイドには載らない」という流れだ。皮肉なことに、この新しいミシュランガイドの出現が、ガイドそのもの存在を明確に脅かす流れを加速させることになりはしまいか?

これぞ、「イノベーションのジレンマ」ならぬ「ミシュランガイドのジレンマ」だ。


タイヤも大して擦り減らない、駐車場も潤沢にない、この狭い東京に限定したミシュランガイドは矛盾を抱えてスタートだ。

どうするんだろう?

ガイドそのものの評価を日本で永続的に維持すべく、これまで☆を受け入れた店に☆を増減して提供し続けるとか、「発掘力」で戦って新たな話題づくりに奔走するとかはそれなりにウケルとしても、それではサービス業者は劇場の見世物にされているだけ。それでもって、「ミシュランガイドすげー」ってマスマーケティングをやるなんて笑えない話だ。

わかりやすい手立てのひとつはとても単純で、はっきり言えば、もともと特定顧客向けに限定して発行された歴史のあるミシュランガイドは、やはり大衆の関心を引かないところでこそ価値を維持しやすいのだ。

外国人旅行者に不親切な現在の日本の環境では、英語版ペーパーバックが出版される意義は日本語版のそれとは大きく異なっていると思われる。日本語を話せない客はお断りという骨太の寿司屋が掲載されているのも、むしろ親切だ。次号から英語版しか出さないということでどうだろう。


いや、まてよ、、、

ミシュランガイド東京の隠された意図(hidden intention)は、話題性を増せば増すほど、逆に掲載されないもっと多くのプレミアムサービスが守られるということなのか?!

17 November, 2007

みんなの笑顔は案外楽しい/Fighter on Rails

紅白の司会に抜擢された笑福亭鶴瓶師匠曰く
「私よりね、もっと年上の先輩方が喜んでくれましたよ。よかったなぁ、って。」

事象の価値判断というのは相対的なものだ。面白いのは、成果を出した人でさえ、直接その成果の価値を理解するのが難しいことがあることだ。そこで、「客観」とは良く言ったもので、オーディエンスがバリュードライバーになるわけだ。その役割たるや計り知れない。

本人の価値判断が甘いのはなぜだろう。紅白司会者の大抜擢であれ、ソフトウェア開発成果であれ、事業業績であれ、とにかくなにがしかを形にしたとき、まさに当事者であるゆえに、本人はいわばゴールラインで息切れしてぜえぜえいってて、疲れてるわけ。

しかし、その状態の価値については、客観判断のほうが明確。それゆえに本人にしてみれば、自分にはあまり実感がなく、むしろ周りのほうが喜んでくれているように見えるんだなあ。

みんなの笑顔は案外楽しい。

一方、喜んでくれる人たちは応援こそすれ、自分で価値を産み出したわけではない。実のところはそれぞれの思惑にしたがって喜んでおり、温度もさまざま。

それでも、両方が合わさると、つまりポジティブフィードバックが本人に伝わるとはじめて価値が見えやすくなる。客観情報はまとまって集合知として理解すると強いフィードバックになる。「こんなに」「周りが」喜んでくれるんなら、やってよかった、また次も行っちゃうか、とモティベートされる。

そうだからと言って、当事者のモチベーションが常に外部にあるわけではないよね。誰か他の人のためにやっているというのとは、またちょっとニュアンスが違うよね。思うに、それは喜ぶ顔を見たい自分のためだろう。価値が形になって見えやすくなるプロセスがたまらないわけだ。

そうか、それこそがfighter on railsか。

そうしてまた、群衆として叡智を創出してしまうのか。