23 November, 2007

ミシュランガイドのジレンマ

「ミシュランガイド東京」がバカ売れだそうだ。何件も本屋を周る人たちが続出。専門家によるオピニオンの典型で、群衆による選択の機能とは遠いところにあり、むしろ群集心理の機能によって話題になっている。梅田さんの力作「ウェブ時代をゆく」と近いタイミングでこれが来たのもこれまた妙を感じる。


買い手の欲求とこのガイドの機能を考えるに、それはアブラハム・マズローの欲求段階説の3段階目あるいは4段階目に対する期待を含んだものだろう。その源泉は主に話題性にあって、それらしい専門家の観点(スコープ)を垣間見れる期待、そして「プロの視点」を「マスの話題」に持ってこれる期待だ。自分にすでにオピニオンや情報源が十分あるかどうかは関係ない。

極論すれば、何件も本屋をまわってミシュランガイドを買う心理的欲求と、クリスピークリームドーナツを2時間かけて並んで買う心理的欲求は同じだ。

ここで問題は、提供者の違いだ。ミシュランガイドは実際の提供者ではなく、ポインターの一覧だというところで、それがもたらすサービス業界そのものへの影響がある。クリスピークリームドーナツは薄利多売式のマス向けサービスを前提としているが、ミシュランガイドが示すプレミアムなサービスはそうではない。ガイドに掲載されてしまった店すなわち、専門家が認めた、”チェケラ”なサービスが掲載されており、それに導かれて大衆が電話をかけ、押し寄せていく。

プレミアムなサービスを提供する店というのは、プレミアムであるゆえに、対象はきわめて限定的なのだ。客が店を選んでいるのではない。店が客を選んでいるのだから。

だから、掲載のみならず調査さえ拒否した店も多いと聞くのは驚くに値しない。ミシュランガイドに掲載された「優秀」な店は、これまでの「優秀」な客を失いかねない。掲載される店に、果敢にもあえて拡散性の高い人たちの評価を受ける狙いがあるとしても、評価の集約方法がないためにそれは機能しない。

リスクのほうが大きい場合、ガイドによってマスが殺到するのをいやがる店は、かようなマス・アピールにつながる活動を一層拒絶するようになる。そのような店は、マス・マーケティング以外の方法で粛々とぴったりの客を得続けられる。だから、「本当にプレミアムな店はミシュランガイドには載らない」という流れだ。皮肉なことに、この新しいミシュランガイドの出現が、ガイドそのもの存在を明確に脅かす流れを加速させることになりはしまいか?

これぞ、「イノベーションのジレンマ」ならぬ「ミシュランガイドのジレンマ」だ。


タイヤも大して擦り減らない、駐車場も潤沢にない、この狭い東京に限定したミシュランガイドは矛盾を抱えてスタートだ。

どうするんだろう?

ガイドそのものの評価を日本で永続的に維持すべく、これまで☆を受け入れた店に☆を増減して提供し続けるとか、「発掘力」で戦って新たな話題づくりに奔走するとかはそれなりにウケルとしても、それではサービス業者は劇場の見世物にされているだけ。それでもって、「ミシュランガイドすげー」ってマスマーケティングをやるなんて笑えない話だ。

わかりやすい手立てのひとつはとても単純で、はっきり言えば、もともと特定顧客向けに限定して発行された歴史のあるミシュランガイドは、やはり大衆の関心を引かないところでこそ価値を維持しやすいのだ。

外国人旅行者に不親切な現在の日本の環境では、英語版ペーパーバックが出版される意義は日本語版のそれとは大きく異なっていると思われる。日本語を話せない客はお断りという骨太の寿司屋が掲載されているのも、むしろ親切だ。次号から英語版しか出さないということでどうだろう。


いや、まてよ、、、

ミシュランガイド東京の隠された意図(hidden intention)は、話題性を増せば増すほど、逆に掲載されないもっと多くのプレミアムサービスが守られるということなのか?!

17 November, 2007

みんなの笑顔は案外楽しい/Fighter on Rails

紅白の司会に抜擢された笑福亭鶴瓶師匠曰く
「私よりね、もっと年上の先輩方が喜んでくれましたよ。よかったなぁ、って。」

事象の価値判断というのは相対的なものだ。面白いのは、成果を出した人でさえ、直接その成果の価値を理解するのが難しいことがあることだ。そこで、「客観」とは良く言ったもので、オーディエンスがバリュードライバーになるわけだ。その役割たるや計り知れない。

本人の価値判断が甘いのはなぜだろう。紅白司会者の大抜擢であれ、ソフトウェア開発成果であれ、事業業績であれ、とにかくなにがしかを形にしたとき、まさに当事者であるゆえに、本人はいわばゴールラインで息切れしてぜえぜえいってて、疲れてるわけ。

しかし、その状態の価値については、客観判断のほうが明確。それゆえに本人にしてみれば、自分にはあまり実感がなく、むしろ周りのほうが喜んでくれているように見えるんだなあ。

みんなの笑顔は案外楽しい。

一方、喜んでくれる人たちは応援こそすれ、自分で価値を産み出したわけではない。実のところはそれぞれの思惑にしたがって喜んでおり、温度もさまざま。

それでも、両方が合わさると、つまりポジティブフィードバックが本人に伝わるとはじめて価値が見えやすくなる。客観情報はまとまって集合知として理解すると強いフィードバックになる。「こんなに」「周りが」喜んでくれるんなら、やってよかった、また次も行っちゃうか、とモティベートされる。

そうだからと言って、当事者のモチベーションが常に外部にあるわけではないよね。誰か他の人のためにやっているというのとは、またちょっとニュアンスが違うよね。思うに、それは喜ぶ顔を見たい自分のためだろう。価値が形になって見えやすくなるプロセスがたまらないわけだ。

そうか、それこそがfighter on railsか。

そうしてまた、群衆として叡智を創出してしまうのか。

03 November, 2007

WOCS2007 feedback

まー、急な展開でしたね。

9月24日にtwitterで「サミットやりたい」と言い出し、コミュ含め、いろんな人が急激に巻き込まれてくださった「群衆の叡智サミット2007」、無事に終わりました。

早速ITProで報道してくださっています。
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20071102/286251/

来場者、パネラーの皆さん、セッションの内容や、そこから得た気づきみたいなものがあれば、そういうフィードバックはぜひみなさまの日記やブログでお気づかないなく忌憚のないやつをどうぞ。一つ一つが個の知恵による判断であり、その全体を俯瞰すると、それは見る人にとって相対的な価値のある集合知ですから。

すでに書いてくださっているみなさまありがとうございます。
過去30日間に書かれた、群衆の叡智サミットを含む日本語のブログ記事
テクノラティ グラフ: キーワード「群衆の叡智サミット」に関するグラフ


私も、新しい気づき、新しい意見がたくさん生まれましたのでそれは追って書きます。

当日、セッションの満足度アンケートはとりませんでした。聴衆が全体としてどう感じたかはライブなんですからステージ上にいたらわかります。公開討論会という枠組みは、魂のある主体が良いスタイルという枠組みをつくり、そこで個性の、意見の、感情の衝突が何かを起こし独特のfeelが醸成される。それをfeelして共鳴する。ほら、feedbackってギターの共鳴の話でしょ?(w

そう、たとえば、あれは壮大な(?)パネラーの「放牧」。羊が、牛がかわいかったかどうかアンケートをとる動物園はないでしょう。あの羊はおとなしかった、とか、暴走してて怖かった、とかそういうことは個人個人が思うことであって、それは自由です。

あるいは、たとえば、ソリストばっかり集めたライブジャムセッションだって話。ソリスト同士だからうまくいかないか?いやいや、外部性が高いですから。おとなしいソリストもいれば、ロングソロを決めるソリストもいる。1曲90分が短く感じられるのはそれだけバリエーションが豊富だということでしょう。


よーするに、評価はどうやったってオープンになる。もう、群衆の叡智サミットがどうだったか、なんてことは、いろんなブログにたくさん書いてある。全体的に長文なのは、あーもう!ってフラストレーションが長文を生んだのかもしれない。すでに、ものづくりをはじめちゃった人を何人も聞いています。


とすると、来場者まで巻き込んで壮大な放牧作業をライブでやっちゃったことになります。バランス、シナリオ、妥当性、その手のものは期待や問題意識との相対価値ですよね。放牧のための広めの柵はあっても、その中の芝生の位置やポジションなど「こうあるべき論」で構成されていては負けです。

だから、うまい・へたなんて評価は私にはナンセンスなんですが、プラスを目指すためのご意見は共鳴としてプラスに使いますのでありがたく頂戴します。だってもっと面白くしたいからね;-p

ともあれ、パネラーも聴衆も、個々の外部性と問題意識の高さ、利害関係の低さ、そして発言の自由さというパラメータのどれもがとてもいい感じだった。そうそう、珠玉のパネラーは私が呼んだというより、集まったんです。しかも手弁当。各々、とってもコストがかかっているはずです。プライスレスな価値だと思います。


リアルな公開討論会の価値の源泉というものがあるとすれば、それは、意外性であり、共鳴であり、ときに共感であり、熱さが直に感じられることでしょうね。脱線、暴走、拡散、そしてどこかでコンセンサスというブレークスルーポイントが決まる。こういうライブ感にあるんじゃないでしょうか。これだからやめられない。


閑話休題。やっと本題です。

あえて「放牧」でも「ジャムセッション」でもない部分があるとすると、それはバックエンドの運営です。

運営のほうはめちゃくちゃ仕込んでくれました。弊社の天才CFOの吉田のおかげ、もともとこういうことは慣れていない総務部門のおかげ、そしてデザイナーからプログラマーまで全員総出でやりました。「codeなにがし」のトッププログラマは、当日はコーヒー担当。まさに「coffee server」で、「okdtさん、クライアントアクセス数にはまだ余裕があります」なんて感じでしたね(笑 

Linuxコミュニティで古い付き合いのまちのさんも、あかねさんも手伝ってくれた。司会の船橋さんも、集計システムの岡元さんもサイコウの演出でした。みんなそれぞれプロなのに、つい「面白そう」って言っちゃったばかりに手伝わされて。

数々の人が母体企業を動かしてたくさん好意的な協力をしてくださった。いや、一緒にいいものにしよう!という気合でコミットしてくださった。バジェット面でも、運営の下支えという面でも、今後の展開を考えても、テックスタイルだけでやっちゃいけないイベントでした。気持ちよく協賛・後援に乗ってくださった企業・団体、メディアには特に感謝を申し上げたい。

あの「場」を支えるメンバーは大変だったと聞いています。もともと私は舞台裏仕事の経験は少なくないので、リアルにわかります。でも、そこでなんとかできるには、そうする価値があったと思えたから最後まで笑顔でがんばってくれたんだと思うんです。ライブ会場から漏れ聞こえるアツイ「音」に動かされて、不都合な状況の変化への対応を笑顔で走り回ってやってくれた。

次はもっと違うことをやることになりそうだけど、来春にはまたやろうって言ったとき、うれしそうな顔をしてくれたスタッフに、開催のための告知から後片付けまで骨折ってくださった協賛・後援の裏にいらっしゃる皆様に心から感謝申し上げたい。

ほんとうに、ありがとうございました。

28 October, 2007

クラウドソーシング(crowdsourcing)はどうしたものか

アウトソーシングならぬ、クラウドソーシングの話。

Wikipedia、「Crowdsourcing」より
http://en.wikipedia.org/wiki/Crowdsourcing

Crowdsourcing is a neologism for the act of taking a job traditionally performed by an employee or contractor, and outsourcing it to an undefined, generally large group of people, in the form of an open call. For example, the public may be invited to develop a new technology, carry out a design task, refine an algorithm or help capture, systematize or analyze large amounts of data.


USにはCrowdsourcing企業が着々と増えている。

不特定の群衆による、分散された知見や、あるいは労働力によって何がしかの成果を目指すものなのだけど、Crowdsourcingのポイントは主に企業が主体になり、いいだしっぺとファシリテーションを受け持つということだ。多くの解説に「安く済ませる」という言葉が散見されるが、それよりも群衆の持つポテンシャルを企業が利用するというところに着目することが重要で、インセンティブを定義しなければならないし、それは有形であれ無形であれ協力者の納得のいくものでなければならない。

観察者の観点では、Wisdom of Crowdsにはいくつかの理解すべきコンセプトがある。

1.大集団をひとつの「個」に見立てて、なにかのアクションに対する行動や変化を観察することにより活用を図るコンセプト(視覚に着目)

2.大部分の人たちにはスルーされるだろうが、中にいるはずの関心の高い人の個別の"協力"を、できればたくさん引き出そうとするコンセプト(手足に着目)

3.大多数の人たちの自発的に出される意見を集約し、それにより新たなリスクやポテンシャルを探ろうというコンセプト(口に着目)

相互に必ずしも排他的なものではなく、あくまでコンセプトと表現したのだが、成果の演出において重心がどちらにあるのかはそれぞれのサービスを見れば考察しやすい。

1.はソーシャルフィルター(social filter)に使われることが多く、それらはdel.icio.usやはてなブックマークなどのソーシャルブックマークなど、いわゆる群衆による分類すなわちフォークソノミー(folksonomy)として出現している。RSSリーダーでの登録者数にもいくらか観察できるかもしれない。いずれにしてもニッチなテーマに至るまでその動向が見えるため、単なる人気投票的な「ランキング」よりも興味深い結果を出している。

2.はLinuxをはじめとするオープンソース、Wikipedia、またFlickrのような画像アップロードサイトも見られる現象で、いずれも関心のある人同士の積極的な集まりによる協業である。ピアプロダクション(peer production)と言われる。これはルールを決めるところがキモで、それさえコンセンサスがとれれば比較的ファシリテーションしやすい。

ただし、個別の成果の良し悪しが個々のユーザにゆだねられ、それを是正させる働きをするときに見られる機能は、それはsocial filterともいえる。オープンソースにせよ、ウィキペディアにせよ、それらは知見の高い個人による「目」の集積としての機能をアテにしている。

3.は、消費者によるメディア、CGMといわれる。主にブログだ。これは端的に言って、自分の欲求とツールの機能がうまく出会うとブレイクしていくものであり、主に、誰かにファシリテーションされて書くものというよりは、おそらくは特定の人、あるいは仲間を想定して発信される目的で自発的に行われている感覚だ。


ここで、それぞれのコンセプトと、日本人の特性を考えたとき、日本社会の特異性をどうやって活かせるだろうか。

はてなブックマークは技術者にウケすぎていて「ネットイナゴ」と揶揄されるにしても、依然、動きは活発だ。del.icio.usなんてのは英語のサイトなのに、ブックマークには日本語が散見される。価格コム、じゃらんなどのクチコミもそう。評価好きな日本人にはsocial filter機能はもってこいなのかな、と思われる。

ただ、流行っているものが売れるのが現在の日本の市場であり、social fiterを演出している側とそれに乗らされている側の格差や、その影響度は過度に大きい気がする。つまり、うまく火さえつけば瞬く間に群衆は自分の意見としてというよりも、群衆の意見に相乗りする形でノリノリになってしまう。

次に、peer productionはどうだろうか。ウィキペディアは日本語が存在するし、良くも悪くもアクティブではあるようだ。オープンソースは・・・。日本人の中には海外のプロジェクトに参画して何かを作り上げるのに大きな働きをしている人は存在する。しかし、日本人のコミュニティでは贔屓目に言っても元気なほうではない。仲間社会、既得権益社会で構成される日本人の特徴がこの分野での成果に大きく出ているようだ。

ただし、人が困っているときの動きは秀逸だ。オープンソース・コミュニティについて言えば日本はユーザ会ばかりだが、その多くは初心者の質問を扱っている。Q&AサイトのOKwaveや、プログラマのためのcodeなにがしでも、質問されるととても早く答えちゃうのだ。

仲間うちのネットワーク効果や、互助関係のつながりがめちゃくちゃ大きく作用するわけだ。

では、ひとりひとりの発想や独創性は発揮されないのか?そういうのは日本人の不得意とするところではないか、と言いたいところだ。しかし、世界中のブログでもっとも多く使われている言語は日本語だそうだ。

発信はキライじゃないけどツール次第。もののカラクチ評価はとても好き。でも、みんなが好きなものは私も好き。一時間待ってもクリスピー・クリーム・ドーナツは買いたいし、なんと言われても中国野菜は食べない。でも、狂牛病騒ぎで一度は廃絶した和牛はおいしい。亀田はおもしろかったり、ひどいやつだったり、かわいそうなやつ。電通がどんだけSecond Lifeを宣伝しても、「セカンドライフ」とは老後ののんびりした暮らしのことであり、それ以上の魅力は感じられない。

・・・悩ましい。

本日の仮説。

社会的なつながりに関する欲求(マズローでいうところの三段階)がとても強い日本人は、群衆の叡智として日本人だけをグルーピングした場合、その属性はあまり拡散しにくいし、大衆の意見を尊重することによって自分を守る。つまり、マーケティングデータはとりやすいが、ポテンシャルは取りにくい。

しかし、集団の中にいるニッチなスペシャリストを引っ張り出してくることにひとたび成功すれば、ゼネラリストタイプな専門家を養成して大衆に向かってメッセージを出すよりもはるかに高いポテンシャルがある。

彼らは職業的専門家だとは限らず、主婦だったり、10代の若者だったりするが、思わず火付け役に回ることがあり、その効果も計り知れない。ただし、彼らは求められれば口を開くが、自分からは積極的に口を開くとは限らない。いや、匿名の場合にはどこかしら変わった人格で饒舌になったりする。

そうすると、どこに軸足を置いたらよいのだろう。

最初のコンセプトである「social filter」で単なる動きを見せてもらうタイプのクラウドソーシングは新たな価値を生むとは限らない。せいぜいネタのシェアにより、アクセスランキングを加速させているだけになる。

むしろ、その中にいる個人に潜在している新たな気づきを発掘することに取り組む必要がある。これは欧米社会では大衆迎合を跳ね返す文化のため、とても簡単なことに見えるのだが、日本では同じ方法ではとても難しい。

アイデアを提供しやすいわかりやすいツールと、それを出してくれるインセンティブを明確にすること、そうする仲間をいかにして作り上げるか。それには単に欧米からコピペしたようなツール、WEBサイトではだめだ。そこから日本人ならではのファシリテーションを試行する必要がある。

「日本におけるクラウドソーシング」は、脳みそに汗をかかなきゃいけないトピックだ。

群衆の叡智サミット2007まで、あとわずか。

16 October, 2007

11月1日、情報と技術の「新しい流れ」が見える一日


株式会社テックスタイルは、11月1日木曜日に東京丸ビルホールにて「群衆の叡智サミット 2007」(Wisdom of Crowds Summit)を開催いたします。

WEB開発にかかわる技術者、またマーケティング戦略・ブランド戦略担当者、大学・研究機関の研究者、および企業経営者の皆様を対象としています。

http://techstyle.jp/wocs/

2007年から始まる10年の情報経済は「群衆の叡智」によって大きく変革するといわれています。ジェームス・スロウィッキー著「みんなの意見は案外正しい(原題:Wisdom Of Crowds)」に著されている数々の興味深い事実は、一部の「権威」や「専門家」による品質維持の枠組みを、「群衆の叡智」が上回ることを示しました。

しかし、それはどれほど新たな情報パラダイムをもたらすのでしょうか。いや、すでにもたらし始めているのでしょうか。消費者、社員、コミュニティの意見を集約して、正しい意思決定に活用できるほどの精度を期待できるのでしょうか。群衆の意見を「叡智」に変える「目」とはいったいどのようなものでしょうか。

このような数々の疑問を受け、私たちは、数々の企業・団体様のご支援のもと、来る11月1日(木)、WEB開発にかかわる技術者、マーケティング・ブランド担当者、大学・研究機関の研究者、および企業経営者の皆様を対象としたシンポジウム『群衆の叡智サミット2007』を開催し、公開討論会の形をとることといたしました。

セッションは3つあり、WEBの世界から見られるコンセプト、オープンソースをはじめとするソフトウェアに関する問題、そして最後には予測市場(Prediction Market)の話にまで切り込みます。この話題の論客として、珠玉のパネラー陣が集まりました。どうなることやら、わくわくしています。

座席数には限りがありますが、お誘いあわせの上、ふるってご参加ください。

http://techstyle.jp/wocs/